こんばんは。今晩は、中国語の授業に参加してきた。
毎週水曜日、生徒数人と上海人の先生と、カフェでお話しする。
私は、(喋れないけれど)日本語・英語・中国語・韓国語・スペイン語・フランス語・イタリア語を勉強している。勉強する理由は、世界中の人と話をするため、、、ではない笑。むしろ、意思を伝える努力をするために、言語は勉強したくないくらいである。
言語を介したコミュニケーションには、限界があると私は考える。たとえ母語であってもだ。各単語の意味には決められた範囲があり、私たちはその単語を組み合あわせることで、なんとか範囲を広げて意思を伝えている。
しかし、人生をかけて言語を研究する専門家でもない限り、意思を100%正確に伝えることは不可能だと思う。範囲のない意思を、範囲のある言語に当てはめる以上、どうしても漏れが生じてしまうのだ。
さらにやっかいなことに、同じような意味を持つ単語を並べたときに、言語ごとにその単語が示す範囲は異なる。ベン図で考えると、共通する意味の領域に加えて、その国特有の文化や価値観による領域が生じる。
だから、たとえば日本語の「犬」と英語の「dog」、中国語の「狗」が100%同じ意味になることはない。日本人がアメリカ人に「I love dogs.」と言った場合、発信者と受信者が頭の中で思い描いている犬の姿や状況、好き度合いなど、すべて異なる可能性がある。(もちろん、国に関係なく個人単位でも異なるが)
だからこそ、私は言語を勉強することはとても大切だと思う。言語を勉強することは、その国の歴史や文化を、ひいてはその人自身を理解しようとする試みそのものだからだ。もちろん、国単位で考えるその前提は疑う必要がある…
日本語でさえあまり上手くアウトプットできないサカガミが言い訳すると、
それならば、むしろ言語を介さないコミュニケーションの方が、意思をより正確に伝えられる場面もあるのではないかと思う。
人間は、言語だけがコミュニケーションツールだと思いがちだ。
けれど言語には、「伝わってると思い込んでしまう」という落とし穴がある。きっと、発信者が想像しているほどの深みも届かないと思う。
意識を少し改めるだけで、もっと互いを理解できるようになるかもしれない。
だから私は、言語を勉強することでインプットを続けながら、アウトプットには別の方法も使っていきたいと思う。
そもそも、どこまでを言語と定義できるのかは知らんが。
犬の遠吠えにはどのくらいの情報量が詰まっているのか。「ワンッ」は言語なのか。