Day24. 時間は伸び縮みする

タイトルの主張は正しいだろうか?
正しいっぽい。たぶん。

私はなぜか、小学生の頃から手帳を持っていた。スケジュールを埋めることが好きで、「何時から何時まで〜する」というふうに管理していた。(その感覚をどこで身につけたかは謎)

学校の授業では時間が区切られていて、それぞれの区分に教科を当てはめていく。区切りの瞬間にはチャイムが鳴ってくれる。生徒も先生もそのスケジュールにしたがって動く。このシステムによって、少ない報連相でスケジュール共有や意思疎通が可能になり、秩序が保たれやすくなる。さらに、頭を切り替えることもできる。

受験勉強でも、「この時間はこの教科、この時間はこの教科と、自分で時間を区切ったほうがいい。」と言われる。そのほうがメリハリがつく。

上の考え方は、社会人にもなってフラフラしていると忘れがちであるが、人生のどのフェーズでも割と当てはまると思う。

就職して仕事をしていると、業務開始時間も終了時間も決まっているし、お昼休憩もある。きっとある程度時間を区切りながら、みんな働いているんだろう。

だがしかーし、自分で事業をしていると、ほんっっっとうに時間に外的な区切りがない!

1日が24時間ということさえ、忘れてしまいそうになる。生まれてから死ぬまでの時間が、ひとつの塊になってしまっているのだ。だから自分がどこにいるのか見失う。これがダラダラの正体か!仕事しているのに、進んだ気がしない。時間が固まってしまっているから、そらそうか。

時間は、意識して、区切って、はじめて時間として認識される。(この文章では区切られる「時間」と区切ってはじめて現れる「時間」を同じ言葉で表現しているので、ややこしい)

刹那刹那で変化する世の中。(刹那という言葉自体が時間を表すが)便利なことに私たちには数字という概念がある。変化を、数字を使って説明することができる。そのおかげで時間を感じることができる。それを他者と共有することもできる。

時間が流れていると仮定する。あくびをし始めてからし終えるまでかかった3秒と、足を掻き始めてから掻き終わるまでにかかった3秒は、はたして同じ質量で構成されているのか。もし違うとしたら、その違いは行為によって生まれたのか。それとも時の気まぐれによって生まれたのか…そして「質量」は、時間で決まるのか、内容で決まるのか。時間的には同じ質量を持っていても、内容的には質量が変わってくる。この主張は全部主観やけど。(←この段落は全部余談。数字があることで、こんな疑問を持つことだってできる。さらに余談だが、時間は数字だけでなく、因果関係によっても計れそう。)

数字は、私たちに時間という道具を与えてくれる。
私たちは、「2時間でここまで終わらせて、次の1時間でこれをやって、1時間休憩して…」みたいなことができちゃうのだ。時間が見えるぞ。魔法みたい!(?)

この武器を使わない手はない。見えなかった時間を、区切ることで見える化するのだ。そうすることで、自分の行動が時間をともなって流動的になる。

ということで、仕事をするときはどんなタスクでも、「何時までやる」とか「何時までにやる」とかを決めてやったほうが良さそう。そして人生のどのフェーズでも、流れを感じるために時間は区切ったほうがいい。慣れると、「20歳では〜をして、30代になったら〜をして…」とか、「ここ1億年では〜が起こって、次の1億年で〜が起こって…」とか、時間を自由自在に区切れるようになる。時の伸び縮み。

ここまでいろいろ話してきたが、人間はガンジス川のほとりでぼーっとして、そのまま死ぬことだってできるよな〜…

よし、予定通り23時までに書き上げたぞ ᕦ(ò_óˇ)ᕤ